"
英蟯虫:2003:
Date 2003/10/11.
■中国への旅■
■中国への旅■
韓国と中国への旅は特別な意味を持っている。
最初に韓国に行ったのは1978年のことである。
それから丁度10年後の1988年に最初の中国へ行った事になる。
今は知らないが当時は大阪南港もしくは神戸港から鑑真号に乗れば2泊で上海に着いた。
たった2泊の船旅ではあるが荒れた冬の東シナ海の船中は名状し難き地獄の様相を呈している。
どこもかしこも嘔吐物とそのすえた匂いで溢れていた。
上海外灘あたりとなんとか広場。
上海浦江飯店の入り口と魔の部屋
桂林友達飯店にて。
最初の中国への旅ではルート等も何も計画は無く、ただ上海雑伎団ならびに桂林に行ってみたい、という
願望があるだけであった。
上海で目的を果たした後、汽車で広州に行った。
汽車の中で陳さんに出会ったため広州では陳さんの叔父さん一家に世話になり
当時は外国人立ち入り禁止地区であった深せん経済特区に潜入し建設が始まったばかりの
経済特区とらやらを見た。
そしてまた広州に戻り広州からバスで桂林へ。
桂林からは上海までは飛行機で飛んだ。
そして帰りの上海で遊び、そしてまた鑑真号で帰国した。
3月1日に出発し帰ったのが21日であったので丁度3週間の旅であった。
当時の覚え書きによると旅費総費用6万6千円となっている。
上海から広州への汽車の中。
陳さん:建設途中の深せん経済特区にて。
桂林:リ江下り、陽遡まで。
『ノルウェーの林』第二章より
最後の試験も一夜漬けでごまかし、卒業研究論文もなんとかでっち上げて陰気な浦日本から脱出出来る目途がついた。卒業旅行の名目で最後の悪あがきをしようと思い立ち急遽中国に船で渡る事にした。勿論資金は無いのでCB750FCを売り飛ばした。自転車操業もいいところでとにかく目先の金が欲しかった。その金で船を押さえ、神戸港から鑑真号に乗った。冬の東シナ海は揺れるので有名で、みんなゲロゲロの状態で僕も途中からゲロゲロで、途中で満を持して中国人船医に貰った酔い止めの薬も飲んですぐにそのまま口から出てくる有様だった。船は学生を中心に満室でどの場所も胃液と嘔吐物の匂いで充満していた。三日目の朝、ようやく揺れが収まったと思い甲板に出てみると船はドロの川、揚子江に入っていた。
ようやく上海に着いたが我々はなかなか下船させてもらえなかった。公安が乗り込んできて順番にヴィザを支給してくれた。この作業がなかなか進まず、書類に一ヶ所でも不備があると公安に書類を突き返し次の人間の書類の審査に入る。つき返された人間は列の後ろの再び並ばなくてはならない。こうして初めて社会主義の国に上陸した。まだ中国旅行が流行る前で詳しい情報は無かった。とにかく他の日本人旅行者からの伝聞しかなかった。船とヴィザと上海でのホテルがセットになっていたので似たような境遇の人間達とボロいハイ・エースに乗せられて浦江飯店まで連れて行かれた。
かって魔都と呼ばれた上海はまだまだ我々にとっては新鮮で強烈な街の匂いは忘れない。
当時の中国はまだ開放都市が限られていてあまり多くはなかった。
別に何も具体的な計画を立てていなかったので上海では上海雑技を見て和平飯店で下手くそなジャズを聞けばする事がなっなってしまった。今回は上海と桂林くらいしか計画していなかったので桂林行きの切符を手に入れるために駅に行った。どう考えても外国人が短時間で一般中国人民にまみれて切符を入手するのは無理だと判断してCITS(中国国際旅行社)の上海分社に行き、ここでもかなりの労力を消費しようやく数日後の切符を手に入れた。
当時の中国にはまだ二種類の紙幣があって、一つは外人が外貨を交換した際に手には入る外人兌換券、もう一つは一般人民の通常使う貨幣として人民元だった。外人兌換券の方が色々と付加価値があって、一般人民は闇で馬鹿高い外人兌換券を人民元と両替して兌換券の箪笥預金を増やしていた。闇屋は我々のような外人から外人兌換圏を仕入れる。当時地方に行けば1.7倍くらいにはなったらしいが、上海では1.5倍の固定相場で我々は交渉も裏切りもなくお互いの信頼関係を大事にして私腹を肥やしていた。20元あれば一人が一晩十分どんちゃん騒ぎが出来たくらいの物価なので、後半の上海ではお金が全然減らず、増えていく一方であった。手口はこうだ。浦江飯店に始めて来た日本人の学生、その多くは女子、鑑真号は着いた日は特に日本から着いたばかりの学生が多かった。船の上でヴィザを発給してもらい、上陸してからボロボロのハイエースに乗せられて浦江飯店に直行するパターンなので一行が到着すると服務台は混雑する。チェック・インを済ませて次にするのは聖徳太子を外人兌換券に両替す事で、我々は順番に声を掛けて、まだ事情のわからない相手に説明して100元札を一枚出させてすぐ外にたむろしている連中のなかでアコムのおじさんと命名した中国人に黙って先程の外人兌換券の100元札を握らせて替わりに人民元で150元もらう。外人兌換券はいつも100元札一枚であったが上海では50人民元が3枚であった。地方へ行くと50人民元はまれで鼻糞みたいな少額紙幣の束をいくつも受けとる羽目になりいつもポケットの中は札束で一杯だった。アコムのおじさんから人民元を受け取ると飯店に再び入り人混みをかけ分け先程の女子学生の所に行き「今日はレートが良かった3割も増えた」と言って人民元で130元渡す。事情のわからない女子学生はわけがわからないままお礼を言う。これを数回繰り返すと元金は減らずにどんどん金が増えていった。最初は外人と見ると兌換券しか受け取らなかった店も顔見知りになると人民元でも定価の分しか請求しないので益々金は減らなくなった。金持ちはどんどんと資産が増えるのに貧乏な人はいつまでも余裕が持てない、という資本主義の原理を体現したのであった。この闇両替は違法行為であり公安に見つかるとヤバイという事であったが多くの場合は黙認であった。闇屋から賄賂がちゃんと支払われているのである。ただ仲間外れの公安が近くにいる時には闇屋は目で合図した。まぁ、中国政府は外人料金という理不尽な設定を設けて一般人民の価格の数倍という法外な料金を取られていたから、それも外人兌換券で、だから違法な闇両替で儲けてもそれは市場の原理だと割り切って堂々としていた。そんな事情を知らない不勉強な学生から中間マージンを取ってもそれが当然だと思っていた。浦江飯店の203号室で夜な夜なみんなが外出から帰った後で、缶の青島麦酒やウーロン茶を飲みながら「こんな美味しい生活も今回だけだろうと」話をしていた。2年後に上海に行った時には南京路にあれだけいたウイグル人も一人もいなくなっていて、少なくなった闇屋を捜してレートを聞くと1.1だった。それにもうすぐ外人兌換券が無くなるらしい、という事も教えてもらった。最初上海に着いて夜の南京路で見かけたウイグル人は暗闇で目だけがギョロっと光りとても不気味で、知らない間にそっと近づき、「チェンマネ、チェンマネ」とだけ小声で呟いた。運が悪いと知らない間に裏路地に誘導され気付いた時にはウイグル人に取り囲まれて闇両替を強制させられる事もある。一番怖いというか華麗なのは、「チェンマネ」、「ハウマッチ」で始めた商売が目の前で2.0の好レート分を数えて手渡してくれて、儲けた儲けた、そんなにウイグル人も悪い奴じゃないなぁ、それにあいつらはレートしらないのかなぁ、と思って後で財布から人民元を取り出して数えてみると0.9しかなかったりとかの、通称ウイグル・マジックを体験する事になる。体験した人の多くは掌に一枚一枚お札を数えて置いてくれて全然気付かなかった、華麗なもんだと関心していた。ただ修行中のウイグル人もいて最初にウイグル人から金を出させて数えさせて、終わる頃を見計らって掌の札束を握り締めて頭上に掲げてゆっくりと数える。すると0.9くらいしか無い。ウイグル人はニタっとわらって足りない分を掲げた指の間に差し込む。何回か繰り返して約束の2.0とかのレートに近づくように交渉するがやっぱり1.5位が平均だった。最初の上海で浦江飯店の同じ部屋に同じ齢の奴がいた。そいつとは鑑真号から一緒だったが別に特に親しく話しをしたりす関係ではなかったが、そいつは自転車を持ち込みシルクロードを単独で目指すというので、上海を旅立つ前夜色々と話をした。そいつは少しだけウイグル語を勉強していて「ホーシ」と「ヤクシマシス」の二語だけを教えてくれた。以後、夜の南京路を歩いて暗闇からウイグル人が出てきてもこの二語を呪文の様に繰り返すと、それはただの簡単な挨拶言葉なのだが、呪文を聞いた途端に鋭い目つきが急に柔和になり遠く故郷を見つめる様に一瞬目線が遠くに飛び、後は握手してくる有様だ。逆にこちらから「チェンマネ?」と持ちかけてもきっぱりと「ノー」と言ったりしたウイグル人もいた。日に何回も南京路をウロウロするので何人かのチェンマネ・ウイグル人とは顔見知りになった。帰りの上海で浦江飯店での両替の顧客の一人になり得る女子学生がいた。それが東条洋子だった。もう人民元は必要ないとの理由で彼女は断ったと思う。それに日本から着いたばかりではなくて僕と同じように旅を終えて帰りの船を待つために洛陽から上海に帰り着いたばかりであった。東条洋子は多くの学生の旅行者と同じように砂埃にまみれて汚れていた。それにかなり疲れている様子であった。夕食に誘ったが眠りたいと言って彼女は部屋に籠もってしまった。翌日の昼になりようやく一緒に食事に出かける事になった。彼女は今回の旅の疲れからだけではない何かによって深く落ち込んでいた。それでも半ば自暴自棄になって船に乗るまでの約一週間毎日丸一日二人で南京路を中心にして膨大な距離を延々と歩き続けた。その反動的な活力の源が一体何であったのかを知ったのは日本に帰ってから数ヶ月後であった。
浦江飯店の各ドミトリーの部屋では誰か彼か必ず病床に伏している人間がいた。旅の終わりの吹き溜まりのようになった帰りの上海で誰もが体調を崩してした。僕も最後の最後で風邪をひき高熱が出た。それでも、まさに熱病に冒されたみたいというか、実際に熱病に冒されたまま東条洋子と一緒に南京路を歩き回った。
鑑真号で2泊してようやく大阪南港に到着した。
【中国映画】 10年ほど前までは張藝謀(監督)と鞏俐(女優)の作品を追いかけることが出来ていた。 http://global.yesasia.com/jp/artIdxDept.aspx/aid-10654/section-videos/code-c/ 中国の大女優・鞏俐(コン・リー)のファンサイトです
【本頁つづく】
中国と言えば中国映画!
一番強烈であったのはやはり『菊豆(ちゅいとう)』ではなかったか?と思う。
以前中国映画に関してまとめてはいたが見当たらないので再度簡単に情報を収集してみた。
鞏俐
http://www.nicchu.com/movie/gong_li.htm
きれいなお母さん
http://www.jcp21.co.jp/contents/new/kirei.html
鞏俐・出演映画
JISコード表記 | : | 鞏 俐 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本での通称名 | : | コン・リー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルファベット表記 | : | Gong Li | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | : | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
普通話(北京語)発音 | : | gong3 li4(ゴン・リー) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広東語発音 | : | gung2 lei6(グン・レイ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | : | 1965年12月31日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出生地 | : | 遼寧省瀋陽市 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルバム | : | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出演映画 | : |
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
主な経歴など | : | ・生後すぐに山東省済南県に移る。'85年に演劇の名門・北京中央戯劇学院に入学、舞台稽古を見たチャン・イーモウ監督に認められ「赤いコーリャン」の主役に抜擢される。 ・演技力には定評があり、国内外で多くの作品に出演している。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ちょっと一言.... | : | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
掲示板 | : |
|